「泣かなくともよい」        03−03−09
                   ルカ7:11〜17
 町に入ろうとしていた主イエスを囲む人々と、町から出よう
としていた棺を囲む人々がすれ違おうとしていました。
 その時、主は棺を囲む人々の方に歩み寄って行かれました。
 それは、棺を囲み悲しんでいた人々の悲しみの原因を取り去り、
人々を主を囲んで神を讃美しながら生きる人々に変えるために
でした。

 私たちは、これまで何を囲んで生きて来たのでしょうか。
 考えてみますと、私たちも自分の棺を抱えて、墓場に向かって
一直線に進んで行くしかできなかった者です。
 しかし、主は私たちにも「泣かなくともよい」とおっしゃってください
ました。それは、私たちを棺を抱えて生きなくともよい者にする
ためです。
 私たちは、このお言葉を向けてくださる主が、死んで復活された方
である事を知っています。その復活によって、死、棺が永遠のもので
なくなってしまった事を知らされています。死は、主の復活によって
敗れ去ってしまったのです。
 しかも、主の十字架によって罪を赦していただいたことで、
私たちは墓場ではなく、御国に向かって進める者にしていただき
ました。
 そのようにして、私たちは棺を捨て去り、主イエスを囲みながら、
御国に向かって生きるものに変えていただいたのです。
 ですから、悲しみの行進でなく喜びと讃美の行進をするのです。

 その棺には、やもめの一人息子が入っていました。 それは、
やもめを慰め、励まし、養う存在でした。 そのような息子を失った
やもめと似た状況が、罪を抱える人間にはありました。
 罪ゆえに、真の慰め主であり、養い手である神を失ってしまって
いたからです。讃美を忘れて生きるしかできない、人間の罪があり
ました。
 しかし主は、息子を生き返らせてやもめに返したように、もう一度
神と共に生きられるようにしてくださいました。主が私たちの罪を
担って十字架にかかり、私たちを清めることによってです。
 その主の救いの御業よって、私たちは再び、心をかけてくださる
神と共に生きる者にしていただいたのです。